ゴブリン
 ダリオ・アルジェントの映画の多くはロックグループ、ゴブリンの音楽の魅力によって支えられている。鮮烈な映像と鋭角的なサウンドとの絶妙なコンビネーションは、後に作られた無数のホラー映画に絶大な影響を与えた。ゴブリンはアルジェントの『サスペリア2』のサウンドトラックで鮮烈にデビュー、アルジェントの黄金期の作品の音楽を手掛けた。

 映画音楽ファンのみならず、世界中のプログレッシブ・ロックのファンからの強い支持を集め続けるゴブリンの歴史を振り返ってみたい。

 


ゴブリン結成・加入以前のメンバーたちの歩み

クラウディオ・シモネッティは1952年2月19日ブラジルのサンパウロ生まれ。
 8歳のときにピアノを始め、14歳でローマのサンタ・チェチリア音楽院に入学、ピアノと作曲を学んだ。ピアノを選んだのは、音楽家だった父のエンリコ・シモネッティ(1924-1978)がピアノを弾いていたこともあるが、ピアノが本当に好きだったことも理由だ。その当時、シモネッティはディープパープルやイエスに触発され、ロックグループで演奏を始めた。ジェネシスやキング・クリムゾン、ELP、ジェントル・ジャイアントなど数多くの70年代のプログレバンドの影響を受けた。シモネッティの在籍した最初のグループ、『ドリアングレイの肖像』はこうした経験とウォルター・マルティーノとの友情によって生まれたものだ。シモネッティとマルティーノの二人は72年にカラカラ浴場で開かれたポップフェスティバルで入賞する。

 父、エンリコ・シモネッティは、音楽に関してクラウディオをいつも自由にさせていた。エンリコは音楽院での勉強については気にかけていたが、そこでの勉強はクラウディオが目指す音楽には不可欠のものだった。

 クラウディオ・シモネッティは父親の作曲能力と卓越したピアノ演奏力を高く評価する。エンリコはわずか4歳で最初のコンサートで演奏を披露したという。エンリコは50年代にはブラジルで、60年代から70年代にかけてはイタリアで有名な音楽家だった。イタリアでは長年に渡ってテレビのショーマン、エンターテイナーとしても知られていた。映画やテレビの音楽も数多く手掛けた。特に75年の『ガンマ』は大きな成功を収めた。

   
マッシモ・モランテは1952年10月6日生まれ。
 マッシモ・モランテは、ロック・ブルースとジミ・ヘンドリックスに傾倒し、エレキギターを始めた。友人の家の地下室で、大音量でギターを弾く毎日だった。その頃は良い音を求めるというよりも大きな音を出すのが好きだった。18歳になってモランテはクラウディオ・シモネッティとウォルター・マルティーノに出会い、一緒に演奏をするようになった。

ファビオ・ピニャテッリは1953年10月30日、ローマ生まれ。
 ファビオは11才のときにギターを始めたが、その時は3ヵ月でやめてしまった。13才のときに転校したのがきっかけで、ファビオはギター仲間と交流を始めた。1966年といえば、ビートルズ、ローリングストーンズや多くのイタリアのロックグループが活躍していた頃だ。ファビオたちはこうしたヒット曲のコピーをしていた。67年、ファビオは高校に入学。毎日、男子生徒たちは「地下室」に集まり、ギターの練習をした。そうしているうちに初めてのグループを結成する。68年になって、ベーシストがグループを脱退、ファビオはギターをやめ、ベースに転向した。その年の終わり頃、音楽界に変化が起き始めた。クリームやジミ・ヘンドリックスなどのアーティストが脚光を浴び、ビートからポップ路線へと時代が流れていた。その頃、ファビオは多くのグループとほとんど毎日のように演奏を続け、ローマの音楽業界で次第に有名になり始めていた。ファビオ自身、ベースの重要性に気付き始めたのもこの頃だった。

 69年の末頃、ファビオは『リベラツィオーニ』にベーシストとして参加しないかという誘いを受けた。『リベラツィオーニ』のベーシストがやめたための交代要員としてだ。そのときから、ファビオはプロのミュージシャンとしての道を歩み始めた。その頃のファビオの目標はクリームのジャック・ブルースだった。『リベラツィオーニ』でクリーム、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、レッド・ツェッペリンなどのコピーをこなすかたわら、アレンジやオリジナル曲の作曲も次第に手掛けるようになっていった。

ウォルター・マルティーノは1953年4月18日ミラノ生まれ。
 17歳のとき、ウォルター・マルティーノは友人らとバンドを組み、ジミ・ヘンドリックスやクリームの曲を演奏していた。その頃、マルティーノはクラウディオ・シモネッティから一緒にバンドを組もうという声を掛けられた。そしてバンド『ドリアングレイの肖像』が結成された。

 マルティーノは『サスペリア2』の制作途中で、『イ・リブラ』に加入するためにゴブリンを脱退する。

   
アゴースティーノ・マランゴロは1953年6月25日カタニア生まれ。
 アゴースティーノ・マランゴロは10歳のときにドラムスを始めた。兄のアントニオ・マランゴロはサックスとピアノを弾いた。アゴースティーノとアントニオはいくつかのグループでの演奏を経験後、プロになろうと決心し、父親を説得し続けた。マランゴロは厳格な家庭に育ち、長髪やロックは麻薬や暴力と結びついていると考える両親からは一切の援助を受けることはなかった。だが、シチリアにいることはアーティストにとってためにならないと考え、レコード会社RCAのプロデューサーに紹介してくれたのは、他ならぬ父親だった。そのプロデューサーは『フレア・オン・ザ・ハニー』を結成する機会を与えてくれ、アルバムを制作する。

 アゴースティーノは『サスペリア2』の制作途中で、ウォルター・マルティーノに代わってドラマーとしてゴブリンに加入する。

マウリツィオ・グアリーニは1955年1月25日ローマ生まれ。
 マウリツィオは10、11歳の頃にギターを始め、友人らとグループを組み、学校の催しでロックを演奏したりしていた。その後、楽器をキーボードに変え、プロとしてジャズの道に入っていった。

 『サスペリア2』のヒット後、ゴブリンは有名になり、2カ月間の全国ツアーのサポートメンバーを探していた。そこで、グアリーニはクラウディオ・シモネッティやウォルター・マルティーノ、その他のメンバーたちと話し合いを持った。そうしたきっかけから、マウリツィオ・グアリーニはゴブリンに加入した。
 
 その頃、グアリーニはジェネシスやジェントル・ジャイアントなどのソフトロックの影響を受け、ハードロックは好きではなかった。ビートルズとローリング・ストーンズのどちらかを選ぶとしたら、ビートルズの方が好みだったようだ。


フレア・オン・ザ・ハニー

『フレア・オン・ザ・ハニー』
  父親に紹介されたプロデューサーの力添えもあり、アゴスティーノ・マランゴロは、1969年、アントニオ・マランゴロ、カルロ・ペンニージらとともに『フレア・オン・ザ・ハニー』を結成。ファーストアルバム『フレア・オン・ザ・ハニー』を71年に、バンド名を『フレア』に変えて2枚目のアルバム『Topi o uomini』を72年に出す。だが、アルバムの売れ行きは芳しくなかった。

  72年の終わりになって、ファビオ・ピニャテッリが『フレア』に加入。ファビオ・ピニャテッリは『フレア』とともに2回のツアーといくつかのコンサートに出演した後、74年に『オリバー』(のちの『チェリー・ファイブ』)に加入することになる。
 
 1975年、バンド名を『ETNA』と改め、アルバム『ETNA』を発表。その年、アゴースティーノ・マランゴロは行きつけのパブ、ザ・チタンでウォルター・マルティーノとクラウディオ・シモネッティに出会う。そのときからアゴスティーノのアーティストとしての方向性が変わった。


ドリアングレイの肖像、オリバー

『ドリアングレイの肖像』のポスター

 クラウディオ・シモネッティは71年、ギターのフェルナンド・フォラとロベルト・ガルディーニ、ドラムスのウォルター・マルティーノ、ボーカルのルチアーノ・レゴッリの5人とともに『ドリアングレイの肖像(イル・リトラット・ディ・ドリアングレイ)』を結成、70年代のバンドのカバー曲を演奏していた。72年にはバンドの編成と音楽性を変更し、オリジナル曲を演奏するようになる。ELPに影響を受け、シモネッティがキーボード、マルティーノがドラムス、マッシモ・ジョルジがベースとリードボーカルを担当する3人編成になる。

 シモネッティが次に立ち上げたバンドの名前は『オリバー』といい、ギターのマッシモ・モランテとベースのファビオ・ピニャテッリ、ドラムスのカルロ・ボロディーニ、そしてクライブ・ハインズという英国人のボーカリストがメンバーだった。ハインズは地下鉄の前で弾き語りをしていて、それで出会ったという。

 ファビオ・ピニャテッリにとって、キーボードのいるバンドは初めてだった。このグループはイエス、ジェネシス、キング・クリムゾンなどの英国のバンドを目標にしていた。そのため、ベースの演奏法も当然に影響を受け、ファビオはクリス・スクウェア、ジョン・ウェットン、ピーター・ギルスの奏法を取り入れた。

  数カ月リハーサルをして、イエスのプロデューサーをしていたエディー・オッフォードにデモテープを送った。オッフォードはテープを気に入り、彼らをロンドンに招いた。

 だが、彼らがロンドンに渡ったとき、ちょうどオッフォードはイエスの長期間にわたるツアーの真っ最中だった。そのため、ロンドンには1年近く滞在し、大学を中心に数多くのコンサートをした。そして数カ所のレコード会社に連絡をとったあと、イタリアに戻ることにした。シモネッティらがイタリアに帰国するときに、ハインズはバンドを辞めた。

 そうするうち、クラウディオ・シモネッティの父親、エンリコ・シモネッティの援助で、彼らはチネボックスレコードと契約することになった。歌手のトニー・タルタリーニとともにレコーディングをし、出来上がったアルバムは『チェリー・ファイブ』と名付けられた。

チェリー・ファイブからゴブリンへ

『チェリー・ファイブ』

 イタリア帰国後、彼らはエンリコ・シモネッティが作曲したサウンドトラックのシングル盤『ガンマ』の演奏を手掛けるなど、チネボックスレコードのために、サントラの演奏バンドとして活躍する。新しいボーカリストとして『ルオボ・ディ・コロンボ』のメンバーだったトニー・タルタリーニが加わった。74年、彼らはこの編成でアルバム、『チェリー・ファイブ/白鳥の殺意』を制作する。作曲はシモネッティとモランテが担当した。最期の段階で、レコード会社は理由もなくバンド名を『オリバー』から『チェリー・ファイブ』に変更した。チェリー・ファイブという言葉に特別の意味はない。偶然のアイデアから生まれたものだ。このアルバムは当時、売れていたジェネシス、イエスやジェントル・ジャイアントのイタリア版といった感じの複雑な音作りをしており、ハモンドオルガン、フェンダーピアノ、ミニムーグ、メロトロンなどの演奏には圧倒される。彼らはエマーソン・レイク&パーマーのキース・エマーソンに出会い、エマーソンの部屋をロンドンでのスクリーンテストのために貸してもらったこともある。『チェリー・ファイブ』は英国での活動の経験を活かしたかのようにボーカルは英語である。

 しかし、このアルバムのリリースは制作の最終段階で中断してしまう。『サスペリア2』のサウンドトラック演奏の仕事が入ってきたからだ。チェリー・ファイブが契約していたレコード会社のチネボックスにはエンリコ・シモネッティや『サスペリア2』のサントラを担当することになっていたジョルジョ・ガスリーニも在籍していた。ダリオ・アルジェントはチェリーファイブのデモテープを聴き、彼らに声を掛けた。ホラー映画の担当にチェリー・ファイブというバンド名は似合わないため、ゴブリンと改名した。ゴブリンが誕生したのはこのときだった。

 『オリバー』との違いはドラマーのカルロ・ボロディーニが『ドリアングレイの肖像』に在籍していたウォルター・マルティーノに代わったことだけだった。『サスペリア2』の仕事を終えた後で、メンバーは『チェリーファイブ』のアルバムを仕上げた。このアルバムのボーカルはトニー・タルタリーニが担当している。『サスペリア2』のアルバムが大ヒットしたため、『チェリーファイブ』のアルバムはその影に隠れ、大したプロモーションもされず、売り上げも低調だった。


1)田舎の墓地にて COUNTRY GRAVE-YARD
2)ドリアン・グレイの肖像 THE PICTURE OF DORIAN GRAY
3)白鳥の殺意(パート1) THE SWAN IS A MURDERER(Part-one)
4)白鳥の殺意(パート2) THE SWAN IS A MURDERER(Part-two)
5)オリヴァー OLIVER
6)雲の王国 MY LITTLE CLOUD LAND

Carlo Bordini  percusion& durms
Fabio Pignatelli bass
Massimo Morante guitars
Claudio Simonetti keyboards
Tony Tartarini vocals