投稿者 ユーベ 日時 1998 年 2 月 14 日 16:22:01:
回答先: 「わたしは目撃者」について 投稿者 ユーベ 日時 1998 年 2 月 08 日 04:42:03:
この映画で最も重要なのは目撃者と犯人の対比にあると思います。
目撃者である元記者のアルノは盲目で、姪を自分の目の代わりにいつも連れ添ってます。目が見えない分、その他の感覚が鋭いアルノは事件の当夜、研究所の横を横切った時不可解な雰囲気を察知し、姪に車に乗ってる男の事などを聞き出します。そして研究所の向かいにある家に帰って、クロスワードパズルをやってる時、再び違和感に気付き、姪の安否を確かめたり、窓を開けて前に違和感を感じた研究所を覗きます。事件の次の日、アルノは現場の横をうろうろし現場の様子を知ろうとしてましたね。
さて、犯人は事件の真相を隠すため次々と冷酷な殺人を繰り返しますが、ここでアルジェント監督は犯人の目線で動くカメラワークを使ってます。これが何を意味するのか?犯人の目線でカメラが動くことであげられる効果は、まず犯人の立場を疑似体験できることと、それに伴う恐怖の倍加が挙げられます。ほとんどのアルジェント作品はこれを意図しているのではないでしょうか。しかし、この映画ではそれだけではなく、もっと重要な要素を含んでいます。そうです、目の見えない目撃者と、目の見える犯人との対比なのです。特に犯人の瞳のアップがそれを如実にしています。
犯人は、カメラマンが殺された建物の道端で、車に乗っている目撃者とすれ違ってますが、目撃者であるアルノは前にも似た違和感を察知します。
また、自分と一心同体の姪をさらわれたアルノは恐怖感に襲われ、それまでにない狂気的な行動をとるようになります。これは、心の支えを失うことへの恐怖があると同時に、自分の間接的な目を失うことへの恐怖感があるのでしょう。姪に“クッキー”と呼ばせているアルノに、姪への愛情というよりは一種の信頼感を置いているように思えます。実は2人揃って完全な1人の目撃者を形成しているのです。アルノは、姪を探して犯人を追い求めていく。
アルジェント作品の多くには裏に潜むメタファーというものがありますが、この「わたしは目撃者」では目の見える犯人が、目の見えない目撃者に追いつめられるという設定が効いているのです。最後、死んだと思っていた姪が生きていて、彼女が「クッキー、クッキー、クッキー…」と叫ぶ所に、犯人の哀れさが伝わってきます。あの死に方(最後の最後まで犯人の目線!)も…。
いやー、好きな映画「わたしは目撃者」でこんなに話せるなんて。僕の拙い話にのってくれた中川さんと、トークの場を提供してくれた矢澤さんに感謝します。(なんかどっかの賞のスピーチみたいな締め方。)