アンダルシアの犬とサスペリア |
アルジェントの映画は、イメージをダイレクトに映像化するという意味では表現主義的である。例えば、サルバドール・ダリのイメージをルイス・ブニュエルが映像化した「アンダルシアの犬」(1928)にも眼をカミソリで切ったり、手のひらをアリが這い回ったりするシーンがある。 画面設計において、サスペリアとアンダルシアの犬の共通点を見て取れないであろうか。アンダルシアの犬はイメージの洪水のような映画である。
また、ドイツ表現主義の代表作、ロベルト・ヴィーネの「カリガリ博士」では舞台、廊下、背景が不思議な感覚の絵で構成されている。
反対意見もあるだろうが、これらの作品とサスぺリアは明らかに同系列の作品に属するといえるだろう。サスぺリアの素晴らしいところは、まさにそこであり、本来であれば、一番に評価されるべきところといえよう。 次に、アルジェント作品の印象的なシーンと表現主義の古典作品のいくつかの類似シーンを比較してみる。 「アンダルシアの犬」の冒頭では、女性の目をナイフで切るシーンが登場する。このシーンの生理的な「嫌さ感」はアルジェント作品における生理的な恐怖感と同一のカテゴリーに属するものといえる。(参考:アンダルシアの犬の動画) 「サスペリア」におけるサラの殺害シーンでは、針金に巻き込まれて身動きのできないサラの首をナイフが切り裂く。そして切り裂かれた首がクローズアップで写される。 次に、「アンダルシアの犬」のアリの群がる男の手がドアから出てくるシーンと、「サスペリア」で、ナイフがドアから差し込まれるシーンを比較する。ドアの向こうには誰かがいるが、ドアのこちら側からは、それが誰だか分からない。人々の潜在的な恐怖に訴えかける印象的なカットだ。
アルジェント作品では、廊下が効果的に登場する。アルジェントは「廊下には奇妙な感覚を持っている」と語っているが、「カリガリ博士」における廊下も印象的だ。セット自体があえて歪めて作られており、まるで舞台のようだ。S.S.プロウアーは「サスペリア」について、「カリガリ博士」ほど徹底したものではないが、やはり舞台用フラットをまねた様式化されたセットの試みをしている、と分析している。 カーテンの使用も印象的だ。アルジェントは「カーテンは母親の象徴だ。優しく包み込むこともできるし、締めつけて窒息させることもできる」と説明する。カーテンはこちらの世界と向こうの世界を二分するものだ。たとえ、布きれ一枚であろうとも、空間を明確に区分していることに変わりはない。
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