LE CINQUE GIORNATE
ビッグ・ファイブ・デイ

Also Known As : The Five Days in Milan (1973)


1973 Color




[STAFF]

監督:ダリオ・アルジェント
制作:クラウディオ・アルジェント(制作総指揮)、サルバトーレ・アルジェント
製作:セダ・スペッタコリ
配給:パラマウント
脚本:ダリオ・アルジェント、ナンニ・バレストリーニ、ルイジ・コッツィ、エンゾ・ウンガリ(ビンチェンゾ・ウンガリ)
撮影:ルイジ・クベイレル
音楽:ジョルジョ・ガスリーニ
美術:ジュゼッペ・バッサン
衣装:エレナ・マンニーニ
編集:フランコ・フラティチェリ
ユニットマネジャー:アレッサンドロ・カロスキ
原案監修:フランコ・カタラーノ

[CAST]

カイナッツォ:アドリアーノ・チェレンターノ
ロモロ・マルチェリ:エンゾ・セルシコ
伯爵婦人:マリル・トロ
未亡人:カーラ・トロ
トランズント伯爵:セルジオ・グラズィアーニ
ルイーザ・デ・サンティス
イヴァナ・モンティ
グラウコ・オノラート
ジェルマーノ・アルトマンニ
ダンテ・マルティーニ
サルバトーレ・バッカロ
ロレダナ・マルチネス
グリエルモ・バルデッラ
フルビオ・ミンゴッツイ
ロレダナ・ベナッカ
ウーゴ・ボローニャ
ステファノ・オペディサノ
ルカ・ボニカルジ
レナート・パラッキ
グエリーノ・クリベッロ
トム・フェレイ
クラウディオ・スフォルジーニ
ルイジ・アントニオ・グエッラ
エミリオ・マルケシーニ

その他の情報

時間 : 101分
公開日:イタリア1973年12月20日

フィルムネガフォーマット:35mm
現像:テクニスコープ
フィルムプリントフォーマット:35mm
画面比 2.35:1

アルジェントがコメディーに挑戦した理由

 3本のジャーロ(イタリア製スリラー)を作った後、アルジェントはルイジ・コッツイと仕事を再開した。それが、ビッグ・ファイブ・デイである。この映画の公開当時、ルイジ・コッツイは雑誌「フォートン」で以下のようなコメントをしている。

 「ダリオが次の作品、ビッグ・ファイブ・デイの仕事を開始したとき、四匹の蝿は編集中だった。その作品は1848年の革命のさなかに起こるコミカルな冒険物語だ。わたしがこの原稿を書いているころには、撮影はほぼ終了し、1973年のクリスマスシーズンの公開が予定されているだろう。ダリオがなぜ、コメディを選んだか。それは、ダリオが観客がスリラーに飽き始めていることを懸念したからだ。とりわけダリオの作品を真似した映画がダリオの作品の成功以降、大量に作られたのだ。

 ビッグ・ファイブ・デイはワイルド・バンチのスタイルで作られた。この作品には大量の暴力と血糊、そしてダリオとわたしが思い付く限りのコメディのアイデアを盛り込んだんだ。この作品はイタリア国内市場向けに作られた。いくつかの配給会社は海外配給を断ってきていたから、アメリカでの公開には懐疑的だった」。

 大衆がジャーロに飽きているのではないかというアルジェントの不安はよくわかる。映画は流行を追うものであり、興行成績を気にしなくてはならないからだ。1本成功した映画があれば、多くの模倣作品を生み出す。イタリア映画には特にこのことがいえるだろう。ポール・ホフマンは1974年のニューヨークタイムズ紙にこう書いている。「イタリア映画にはフィローネの法則がある。フィローネとはイタリア語で小川のことであるが、1本のマカロニウエスタンが成功すれば、大衆がそれに飽き、小川が枯れるまで同じような映画が流れのように量産されるのだ」

 アルジェントが四匹の蝿を完成させたとき、ジャーロという小川は堤防を溢れ出し、供給過剰の状態になっていた。しかし、ビッグ・ファイブ・デイは解決策にはならなかった。

荒削りで、定型的な作品

 『ビッグ・ファイブ・デイ』の基調となるスタイルは風刺劇だが、一種のマカロニウエスタンとも呼べるかもしれない。場所の設定をアメリカとメキシコの国境だということにして、馬を出し、衣装をウエスタン風にすれば、ビッグ・ファイブ・デイは西部劇だといっても通るだろう。『ビッグ・ファイブ・デイ』は非常に粗削りな作品に仕上がった。ルイジ・クベイレルの撮影は素朴で単純なうえ、型通りで工夫がみられないもので、2年後に凝りに凝った『サスペリア2』を撮った撮影監督と同一人物とは信じられないほどである。『ビッグ・ファイブ・デイ』はアルジェントの4作目の映画というよりはまさに習作といってもいいような出来だ。一例を挙げれば、主人公ふたり、カイナッツオとロモロが女性の出産の手助けをするシーンでの低速度撮影である。このようなテクニックは使い古されたものであり、アルジェントらしくない。アルジェントにはコメディの才能はないことを露呈した作品といえる。アルジェントはレオーネやペキンパーのように社会風刺をテーマに折り込みながら大胆なバイオレンスを展開することはできなかった。

興行的にも失敗

 ルイジ・コッツイが予想したとおり、『ビッグ・ファイブ・デイ』はアメリカやイギリスでは公開されなかった。アルジェントがマーチン・コックスヘッドとのインタビューで明らかにしたところによれば、『ビッグ・ファイブ・デイ』はイタリア以外では公開されなかった。「『ビッグ・ファイブ・デイ』は非常にイタリア的な映画だ。わたしは特に祖国と自国の観客のために作りたかったのだ。これは反抗的な映画だ。無産階級から見た革命であり、ブルジョワジーに対する革命なのだ。1968年5月のパリ学生暴動のように暴力的で、ばかげている作品だ」とアルジェントは語っている。イタリアの観客向けの作品を撮るというアイデアは商業的には正しかったように思われる。イタリアはヨーロッパ9カ国中、映画人口が最大だったからだ。しかし、イタリアの観客は『ビッグ・ファイブ・デイ』を受け入れなかった。大衆からも批評家からもこの作品は無視される結果に終わった。

 アルジェント自身は批評家のアラン・ジョーンズ氏のインタビューで「ビッグ・ファイブ・デイを作ったのは、自分にとってジャーロを作る時期は終わったと感じたからだ」と話している。「違う分野へ進出したくて脚本を書いた。自分で監督するつもりはなく、制作だけを担当するつもりでいた。最初はナンニ・ロイが監督をする予定だったが、制作準備段階で、わたしは俳優たちにミラノに呼び出されたのだ。彼らはロイに不信を抱いていて、わたしに監督して欲しいと言ってきたのだ。これには躊躇した。史劇を作る準備はできていなかったし、わたしがそんな映画をとるなんて観客が受け入れないのではないかと思ったからだ」。

 ナンニ・ロイは1961年に第二次大戦中のイタリアを舞台にして、ナポリ市民のナチス・ドイツに対する抵抗運動を描いた『祖国は誰れのものぞ』を監督している。この映画の原題は『Le Quattro Giornate di Napoli(ナポリの4日間)』といい、ミラノの5日間を描いた『ビッグ・ファイブ・デイ』の原題、『Le Cinque Giornate(5日間)』はこの映画の影響を受けているのではないだろうか。

悪夢のような毎日

 ダリオ・アルジェントにとって、ミラノでの撮影は悪夢のようだった。例えば、毎日毎日、街路を整えなければならなかったからである。主演は当初ウーゴ・トルナッツイが予定されていたが、イタリアのエルビス・プレスリーと呼ばれるアドリアーノ・チェレンターノに変更された。このことがさらに問題を引き起こした。ダリオにとって、チェレンターノは今までの仕事の中で一番厄介な俳優だった。『ビッグ・ファイブ・デイ』を撮り終えたとき、アルジェントはもう一度生活を変化させようと思った。撮影中、アルジェントは肝炎にかかってしまったのだ。アルジェントは歴史や衣装、チェレンターノのことなど、すべてを忘れたいと思い、娘のフィオーレとともに引越しをする。その地でアルジェントは、誰とも接触せずに人生で最初の幸福を味わった。そして、充電期間を終えたアルジェントはその幸福と自由のすべてを次回作の『サスペリア2』に投入することになる。

各映画ガイドによるストーリー紹介

 各映画ガイドにおける作品紹介を比較する。短いコメント文でも、筆者の見解が分かれるのは興味深い。

ホラーの逆襲の紹介文 

この作品はアルジェント監督の唯一のホラーではない作品。「イタリア人として、自国の歴史を描きたかった」というだけあって、かなり本格的な史劇である。時は一八四八年。歴史に名高いミラノ市民とオーストリア軍との間で繰り広げられた凄惨な市街戦「ミラノの5日戦争」を材にとり、その戦いの虚しさを、泥棒とパン焼き職人という、社会的地位の低い主人公たちの視点から挾っている。

ぴあシネマクラブの紹介文

 ナポレオン没落後、革命の嵐が吹き荒れるミラノが舞台。スリとパン焼き職人のふたりが体験する奇想天外な出来事をコミカルに描いた作品。

全洋画の解説文

 19世紀のイタリアはミラノを舞台に、スリとパン焼き職人の2人が、なんとも奇想天外な騒動を起こすコメディ。あのアルジェントがコメディ!?と思ってしまうが、派手なアクションやくだらないギャグなどの笑いの中にも、出産やら拷問やらとブラックな部分も十分に入り、コメディ映画としてもアルジェント作品としても立派な仕上がりになっている。イタリアン・ホラーの巨匠がコメディを作るとこうなる、と納得させられると同時に、アルジェントの才能が柔軟であることを感じてしまうそんな1本だ。


参考文献:Broken Mirrors/Broken Minds byMaitland McDonagh

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