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L'Uccello dalle piume di cristallo
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ポスターをクリック 1969 Color |
監督 : ダリオ・アルジェント 制作主任:ウンベルト・サムブーコ、カミーロ・ティエッティ |
サム・ダルマス : トニー・ムサンテ |
ロケ地:ローマ(イタリア) 公開日: イタリア 1970年2月19日、西ドイツ 70年6月24日、フランス 71年6月20日、フィンランド 72年5月5日、日本71年10月26日 キネマ旬報掲載:紹介566号 |
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脚本家時代、アルジェントは自分が映画監督になるとは思っていなかった。それどころか、映画監督は下品な職業だと感じていた。アルジェントは一人で仕事をするのが好きだった。脚本家はまさにうってつけの職業といえる。しかし、映画監督はその逆だ。いつも多くの人間に囲まれている。 アルジェントが映画監督になったのは『歓びの毒牙』の脚本を書いたことがきっかけだった。アルジェントは『歓びの毒牙』を手放すことがどうしてもできなかった。他の監督が『歓びの毒牙』を台無しにするのが許せなかったのだ。最初にこの映画の監督候補になったのはドゥッチオ・テッサリだったが、アルジェントは納得しなかった。テッサリに『歓びの毒牙』のような斬新な映画が撮れるとは思わなかったからだ。そこへ突然、父親のサルバトーレがダリオに監督をするように薦めてきた。アルジェントは監督としてやっていくつもりはなく、『歓びの毒牙』を最初で最後の作品にしようと思った。恐れることは何もない。アルジェントは『歓びの毒牙』が誰かの手によって汚されるのを見たくなかった。 フレドリック・ブラウンが1953年に発表した推理小説『通り魔』をアルジェントに紹介したのはベルナルド・ベルトルッチだった。ベルトリッチは自分自身もこの小説の映画化権を手に入れようと思っていたが、アルジェントに譲ったのだった。当初、アルジェントは通り魔の脚本・映画化を試みた。だが、映画化権が高かったため、アルジェントは独自に原作をアレンジすることにした。『通り魔』はアニタ・エクバーグ主演で1958年に映画化(アメリカ映画Screaming Mimi)されているが、アルジェントはこの小説のアイデアを使って監督処女作『歓びの毒牙』の脚本を書き始めた。 『歓びの毒牙』のアイデアはアルジェントがチュニジアの海岸で寝そべっているときに生まれた。食事をしたあと、アルジェントは気分が悪くなり、海岸で寝そべっていた。そこでアイデアがひらめいた。そのストーリーに『通り魔』の要素を導入して脚本を書きあげた。『歓びの毒牙』はマリオ・バーバの『The Evil Eye(The Girl Who Knew Too Much)』の影響があると指摘されることが多いが、アルジェントはそれを否定している。『The Evil Eye』のストーリーは「ある女性が殺人を目撃するが、彼女は何かを見落としているのではないかという思いにとりつかれる。そして最後に、彼女は被害者だと思っていた人間が実は犯人だったということに気付く」というもの。主人公が最初に重要なものを見ているにもかかわらず、何か重要なことを見落としているというパターンは『歓びの毒牙』だけではなく『サスペリア2』でも効果的に使用されている。 アルジェントは水槽の中の魚というコンセプトを設定した。これは主人公のサムが画廊の自動ドアの間に閉じこめられるシーンに生かされている。ドアとドアの間に閉じこめられ、動くことのできない主人公のサムはまさに水槽の中の金魚だ。このコンセプトのもとになった水槽をはじめに見たのは『五人の軍隊』のプロデューサー、イタロ・ジンガレッリの家だった。 |
『歓びの毒牙』の制作は順調には進まなかった。プロデューサーのゴッフリード・ロンバルドは新人のアルジェントに監督させるのに不安をおぼえ、テレンス・ヤングを監督に起用しようとした。当時、テレンス・ヤングが監督しオードリー・ヘプバーンが主演した『暗くなるまで待って』(1967)がイタリアで大ヒットしていたためだ。プロデューサーは撮影が開始されてから数週間分のラッシュフイルムをみて、監督をアルジェントからフェルディナンド・バルディに変更しようとした。とある日曜日、ロンバルドからアルジェントに電話がかかってきた。会って映画について話しをしたいという。ロンバルドは落ち着いてこう言った。「今この映画から手を引けば、給料は払おう。それがお互いの名声を守る方法というものだ」。アルジェントが断るとロンバルドは説得を始めた。「君は監督ではないから」などと言い出す始末だった。だがアルジェントがきっちりと契約書を交わしていたため、アルジェントは途中で降板させられることはなかった。ダリオの父親のサルバトーレが契約関係をきっちりとしてくれていたおかげだった。父親のきめ細かな配慮がなければ、アルジェントは『歓びの毒牙』を完成させることはできなかっただろう。 紆余曲折の末、『歓びの毒牙』は完成する。『歓びの毒牙』の制作費は50万ドルで、撮影はローマで7週間かけて行われた。幾何学的なデザインの画廊のシーンは3回取り直した。 次の関門は映画会社チタヌスでの初回試写だった。アルジェントは試写には顔を出さなかった。誰かとけんかをしてしまいそうだったからだ。父親だけは評価してくれたが、その他の人々の評価は散々だった。ところが、映画はチタヌス最大のヒットとなった。その日からロンバルドはこの映画を屑だと言わなくなった。『歓びの毒牙』の成功以来、アルジェントは他人の意見を聞くのはやめようと決めた。アルジェントは『五人の軍隊』のプロデューサー、イタロ・ジンガレッリにも連絡を取り、「自分の人生は変わるかもしれない」と伝えた。『歓びの毒牙』のあと、アルジェントの人生は実際に変わった。アルジェントは自分に映画監督の才能が備わっていることを確信した。アルジェントの存在は全世界に知れ渡ることとなったのである。イタリアには若いけれども、ものすごいスリラー映画の監督がいる。映画監督としてのダリオ・アルジェントのキャリアの始まりだった。 |
アルジェントとムサンテは全くうまくいかなかった。アルジェントは毎朝仕事にいくのが悪夢のようだった。くる日もくる日もムサンテとけんかしなければならなかったからだ。ある夜、ムサンテは映画のあるシーンについて話し合いたいと午前1時過ぎにアルジェントの家を訪れた。アルジェントはドアを開けなかった。「映画は多くの人々によって作られる。役者だけのものではない」とアルジェント。アルジェントは役者との関係が憂鬱になった。やっとのことで撮影が終わり、しばらくして、ふたりは再会することになった。しかし、今度は本当にこぶしで殴り合うけんかになった。大柄なムサンテにアルジェントが勝つすべはなかった。アルジェントは「それ以来、幸いなことにトニー・ムサンテのように最低な役者にであったことはない」と話している。 |
フレドリック・ブラウンの小説『通り魔』(Screaming Mimi)は、監督:ガード・オズワルド、脚本:ロバート・ブレース、出演:アニタ・エクバーグ、フィル・キャリー、ジプシー・ローズ・リーで1958年にアメリカで映画化されている。ヒッチコックの『サイコ』が撮られる2年前に、この映画にはすでにシャワーとナイフのシーンがあった。こちらもカルトと呼べるサイコ・ホラーの佳作である。 |
日本コロムビアが発売した英語版ビデオ、LDは、冒頭のタイトル直後の女性の悲鳴が画面のコマ飛びで切れていたが、カルチュア・パブリッシャーズ発売のイタリア語版ビデオ、DVDでは完全収録されている。米ローングループから発売された英語版LDには英語版予告編が収録されている。 |
予告編ムービーです。 |
各映画ガイドにおける作品紹介を比較する。短いコメント文でも、筆者の見解が分かれるのは興味深い。 ホラーの逆襲の紹介文 ぴあシネマクラブの紹介文 プレスシートの解説文 全洋画の解説文 |
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