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モデル、TVドラマ、映画と、メラニー・ティエリーのキャリアは幅広い。1981年7月17日、フランスのパリに近い
St Germain en Laye生まれ。父親は冷凍食品の倉庫会社勤め、母親は薬剤師、というショービジネスとは全く関係のない家庭に生まれたメラニーがティーン向けのモデルクラブに登録したのは13歳の時だった。
当時はスーパーモデルの全盛期。メラニーの憧れはリンダ・エヴァンジェリスタだった。
中学3年の時、企業で1週間働く経験をするという学校の課題があり、彼女はパリの有名なモデルエージェンシーのカリン社に電話をする。ブッキングの部署で採用され、仕事が1週間ほど過ぎた頃、メラニーにモデルとしてやってみないか、との声がかかる。だが、小さすぎるとの理由で、しばらくはほとんど仕事もなかった。 モデルとしてCMに何本か出た後、勧められるままにテレビドラマの少女役のオーディションを受けて、95年にテレビ連続ドラマ『Confessions D'Adolescents』、96年にテレビ映画『L'Amerloque』でデビュー。『Pour Faire Plaisir a Maman』 『Parisient Tete De Chien』『Docteur Sylvestre』にも出演する。97年には『Des gens si bien eleves』でミシェル・モルガンと共演した。だが、モデルの世界への憧れは捨てなかった。ある日ピーター・リンドバーグが撮影した写真がイタリア版ヴォーグに掲載され、モデルとしての彼女へのオファーが殺到する。パオロ・ロヴェルシなどもこぞって彼女をモデルにした。メラニー・ティエリーは瞬く間に欧州中の高級女性誌のグラビアページを飾る人気モデルとなったのだ。メラニーは4か月間、毎日ものすごい勢いで仕事をこなした。しかし、彼女は「この栄光は絶対続かない、ついこの間私を小さすぎると言った人達はまたある日背を向けていく」ということを自覚していた。そんな時に『海の上のピアニスト』の話が舞い込む。同じ頃、モデルとしての話は潮が引くように減っていった。 海の上のピアニスト 彼女に当てられた次なる華やかなライトは映画の照明光だった。彼女は『海の上のピアニスト』の運命のヒロイン役で映画デビューを飾った。16歳の誕生日を迎えたばかりのその日、ジュゼッペ・トルナトーレ監督からの電話で、イタリア版ヴォーグを見た、と告げられたメラニーは母と2人でパリからローマにキャスティングを受けに飛ぶ。
メラニーは普段着で、メイクもせず行ったところ、スタッフは10歳か12歳くらいの子供だと思ってがっかりしたという。だが、彼女はせっかくだからと、ヘアメイクをしてもらいカメラの前に立つ。彼女自身は英語も完璧ではなく、長編映画への出演経験もなかったため、期待をしていなかったが、1時間半のテストの後、監督は彼女をヒロインに選んだ。 カジモド フランスの人気コメディアンで、映画俳優としても有名なパトリック・ティムシットが、初監督作品に選んだのが、『ノートルダムのせむし男』の現代版。そのヒロイン、エスメラルダ役のオーディションにメラニーは本気で臨んだ。エスメラルダはラテン系の美女であり、ブロンドで背も低いメラニーには無理だとの声もあった。『海の上のピアニスト』はまだ公開されていなかったため、メラニーを映画館で見た者はおらず、印象強い役とはいえ脇役だったのに対してエスメラルダは主役だ。彼女自身もハードルは高いと自覚していた。 CANON E'INVERSO 99年8月にはイタリアに渡り、リッキー・トニャッツィ監督の今世紀初頭を舞台にした大恋愛映画『CANON
E'INVERSO』ではヒロインのユダヤ人のピアニストを演じた。共演はピ一ター・ヴォーン。主役かつ英語での演技、さらに2か月間ローマでピアノの特訓を受ける、という挑戦だった。女優である喜ぴは何千もの人生を生きられることという彼女。もし女優になることを選んでいなかったら、例えば英語やピアノもこんなに本気で習えなかっただろうし、知らない時代や外国に滑り込んでもいけなかったはずだという。 メラニーはどんな役でも演じたいと語る。
暴力的な人物も、ロマンティックなヒロインも、こわい役も、全て。モデルとして求められたような、お人形さんやロリータのイメージに縛られるのだけは御免だという。 |