投稿者 矢澤利弘 日時 1998 年 4 月 28 日 00:17:57:
アルジェントの映画はスプラッター映画の嚆矢であるかのような説明がなされることが多い。確かにアルジェント以前の恐怖映画においてはいわゆる残酷描写があったにせよ、アルジェントのような過激なまでの描写がなされることは多くなかった。アルジェントの作品においても、初期3部作では、残酷描写が冴えているにしても、それほど残酷と言うわけではない。それが、「サスペリア2」「サスペリア」の2本によって、アルジェントは徹底して”見せる恐怖”を追求したのである。
ここで、注意したいのは、残酷描写に徹した低俗な作品が横行するなかで、アルジェントのこの2作が恐怖映画の金字塔になり得たのは何故かということである。アルジェントのセンスの良さ、華麗な映像、・・・の故であろうか? そのどれもが正解であろう。これらの作品は殺人描写をつなぎ合わせた構造を持っている。すなわち、まずストーリーがあって、そこに殺人を盛り込むというのではなく、まず、殺人のアイディアがあり、それらをつなぎ合わせてストーリーを作ったかのような出来である。これだけならば、無数にある残酷描写先行型のB級映画と異ならない。
ここで我々は、アルジェントは”見えるもの”だけではなく、”見えないもの”をも描いていることに気づかねばならない。私が何度も強調しているので、もう飽きたかも知れないが、「サスペリア」の冒頭の自動ドアの開閉シーン、同じく「サスペリア」で、ダニエルが犬に殺される場面の誰もいない広い広場、「サスペリア2」の全くひとけが感じられないロー
マの街、「インフェルノ」の館の前の誰もいない夜景、エレベーターの回る動輪・・。これらは殺人の道具としては利用されていない。しかし、これらは見えない恐怖を生み出す絶妙の小道具なのである。アルジェント作品で、記憶に残るシーンというのは実は殺人シーンではないことの方が多いのではないだろうか。これはアルジェントが”見えないもの”をしっかりと描いているからであるように思えるのである。