Biography of Dario Argento
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1940年9月7日、ローマ生まれ。母親のエルダ・ルクサルドはブラジル人の写真家、祖父は映画配給業者、父親のサルバトーレ(「オペラ座/血の喝采」撮影中に死去)と弟のクラウディオは映画プロデューサーである。家には映画俳優やモデルが出入りしていたので、自然に映画に親しみ、宿題も撮影所ですることが多かった。このような環境で育ったダリオが映画監督になるのはいわば宿命だったかもしれない。ダリオの最初の記憶は女優ソフィア・ローレンの膝の上に座っていたことだという。家のあちこちには父が関係した戦前戦後の様々なスチール写真があり、ダリオは映画少年、映画青年となっていった。 この頃からダリオの関心は怪奇、恐怖映画に強く向けられていくが、それは自国のマリオ・バーバや他の作家たちよりもアルフレッド・ヒッチコックやロジャー・コーマンの作品の比重が大きかった。フリッツ・ラングの技法にも惹かれ、「メトロポリス」に傾倒する。 映画に初めて出演したのはアルベルト・ソルディ監督の『失礼。賛成ですか反対ですか(原題)』(1966)。ソルディ監督は取材を通じてアルジェントと知り合いになった後、彼をキャスティングしたくなったという。 その後、映画製作会社チタヌスのプロデューサーだった父、サルバトーレの依頼により、1967年にベルナルド・ベルトリッチと共同でセルジオ・レオーネ監督の「ウエスタン」の原案を書く。それを皮切りに、マカロニ・ウエスタン、アクション作品など、様々なジャンルの脚本をこなし、娯楽映画の脚本家として名をなすことになる。とりわけ「ある夕食のテーブル」(1968)の脚本がチタヌスの名プロデューサー、ゴッフリード・ロンバルドの目にとまり、監督としてのデビューのきっかけを得た。 アルジェントとしては珍しい歴史ドラマ、「ビッグ・ファイブ・デイ」を撮ったあと、75年の「サスペリア2」ではシッチェス国際恐怖映画祭でグランプリを受賞する。1977年の「サスペリア」で超自然的なテーマの作品にも進出、続く「インフェルノ」の2作で独自の世界を構築する。「サスペリア」の成功を経て、プロデューサーとしての活動も開始。ジョージ・A・ロメロ監督の「ゾンビ」の制作費を集め、ヨーロッパでの配給権を得た。彼はまた、ランベルト・バーバ監督の「デモンズ」やミケーレ・ソアビ監督の「デモンズ3」などの制作者をつとめている。 「シャドー」では本格的な推理劇、ヒロインにジェニファー・コネリーを起用した「フェノミナ」では華麗なホラーと、観客を次々に魅了、続く「オペラ座/血の喝采」ではイタリアの伝統であるオペラを題材に、重厚な映像を創造した。ジョージ・A・ロメロと再び組んだオムニバス「マスターズ・オブ・ホラー/悪夢の狂宴」ではエドガー・アラン・ポーの「黒猫」を大胆に脚色、アメリカで撮った「トラウマ/鮮血の叫び」では娘のアーシア・アルジェントをヒロインに起用し、新境地を開く。引き続きアーシア主演の2作「スタンダール・シンドローム」と「オペラ座の怪人」でも新しい分野にチャレンジした。「スリープレス」では初期の作風である推理ものへの回帰を試みている。 日本においても、ほとんどの作品が劇場公開され、熱狂的なファンが全世界にいる。 また、彼はローマに自作の映画を中心としたファンタスティック映画関連のショップをオープンしている。店の名は彼の映画のタイトルにちなんでPROFONDO ROSSOといい、地下には博物館もある。 アルジェントは、ベルナルド・ベルトリッチやマルコ・ベロッキオといったイタリア映画界でヌ−ベルバ−グ的な役割を担った監督たちと同世代であり、彼らとは連帯感も強い。
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